死ぬのが怖いときどうする?タナトフォビアの落ち着け方

      
死ぬのが怖いときどうする?タナトフォビアの落ち着け方

タナトフォビア(死恐怖症)を根本から克服するというのは、つまりどういうことなのでしょうか。
死ぬことが怖くないという状態?いつでもポンっと死ねるということ?

死ぬことが怖くない人なんているのでしょうか?
ではタナトフォビアの人とそうでない人の違いとはなんなのでしょうか。

発作のように死の恐怖が襲ってきて、耐えきれないほど辛い。日常生活に支障が出てしまう。というのがタナトフォビアの煩わしさだと思います。
今回はそんな発作的なタナトフォビアへの対応について考えてみます。

完全に死の恐怖を消せるか

生き物は、最終的には必ず死ぬことになっています。恐怖の対象「死」からは、生きている限り逃げることはできません。
数ある恐怖症の中でも、避けるという対処が出来ないぶん、タナトフォビアと付き合っていくことは至難です。

恐怖の対象である「死」そのものを避けられないとなれば、どうしたらいいのでしょう。
対象を変えられないのであれば、自分が変わる他ありません。
つまり、自身の思考にアプローチをしていく方法で、克服を目指すことになります。

完全に死の恐怖を消し去るのは、ほとんど不可能だと思います。
だからこそ世界中に宗教があり、死んだ人を弔う習慣があります。

タナトフォビアの克服というのは、いつでも死ねる状態ではなく、死の恐怖に負けずに生きられる状態ではないでしょうか。
じゃあ、タナトフォビアではない人はみんな、死の恐怖に負けずに生きている・・!というわけではありません。死が怖いということにピンと来なかったり「仕方ない」「考えないようにしている」という人がほとんどです。

しかし、タナトフォビアの人は、死の恐怖に気が付いてしまったというわけで、気がつく前には戻れません。
考え抜いて、納得するしかないのです。

タナトフォビアを糧にする

考え抜く、と書きましたが、ちょっと抽象的で分かりづらいですね。
もう少し付け足すと「自分の頭で考える」ということが大切だと感じています。

例えば、死の恐怖を消すための自己啓発とか、宗教。
自分なりの考えを構築するために取り入れるのはオッケーなのですが、すでに出来上がっている物を丸ごと信じてしまうと、恐怖を消す=どれだけ対象を信じられるか という問題にすり替わってしまうことがあります。

信じる対象を、信じられているときは恐怖が和らぎ、疑わしく感じるときは、恐怖が増す。
これだと、完全に柱に寄りかかっている状態です。恐怖のオンオフのスイッチが外にあり、対象しだいで軸がぶれます。

私がおすすめするのは、柱に寄りかかるのではなく、自分を柱にする方法です。
タナトフォビアがひどい時、検索する手がとまらなくなってしまうことがあると思います。
そういう時に、信じられるものを探すのではなく、本能的に納得できるものを集めて、自分なりの死生観を作っていくようにすると、だんだんと視野が広がっていきます。

多くの人は、日頃は死について恐怖や不安を感じることが少ないはずです。自分自身が病気になったり、子供が出来たり、身近な人が亡くなったりした時に、自分の死について考えるというのが一般的なようです。
それに対して、タナトフォビアという状態は「別に死にそうにもなっていないのに、ひと足先に、死の恐怖を克服するチャンス」であるとわたしは考えます。

自分の経験からですが、死への恐怖を飼い慣らして軸を作ると、なんていうか強い・・!
人生の選択のベースすらできます。「この場合の選択はこう。だってわたしはいつか死ぬから」という具合です。

そして、自分なりの死生観を獲得するためのキーワードは「視野を広げること」であるとわたしは思っているのです。
次章では、タナトフォビアに陥った時「怖い!」とパニくって、狭くなってしまう視野を、広げるための具体的な対策と、怖いときこそ無理にでも視野を広げることの大切さについて書いていきますね。

騙されたと思ってやってみそ

まずは環境づくり。何も生み出さない時間を作る

わたしを含め、死に恐れを抱いている人は、生きているという状態が、いかにラッキーで幸せなことかを忘れがちです。

生の先にある死を見つめてしまっている状態。
目前の生ではなく、遠くの死にピントが合ってしまっていると「生きている」という状態を楽しむ余裕がすっかりなくなってしまうのです。
寿命が尽きるまでの、限られた時間・・とはいえ、自分の好きなものに囲まれて自分の好きなことを選択できる、生きている状態。
これをまず思い切り満喫することから、思考の土台作りを始めてみるといいと思います。

時間に追われ、単調な毎日を繰り返していると、タナトフォビアに陥りやすくなります。
無感動で単調な日々であれば、特に頑張って生きる必要もなく過ごしていけます。
すると、精神のメモリは余ってしまい、思考はますます「死」に向いてゆき、恐怖から視野がどんどん狭くなっていく、悪循環です。

退屈な時間を設けると発想力が増す、という研究結果があります。
確かに制作のアイデアなんかも、何もしていない時に、ぷわっと湧いてくることがほとんどです。
この状態を自分なりに分析してみると、何もしていない時は退屈ですが「生きている状態を純粋に楽しんでいる」
わたしは単純に何もしない状態が楽しいから好きです。が、必ずしも瞑想状態に入るべき!ということでもなく。

という経験を経て、そこから思いを巡らせる。
これは、死について冷静に考えるための土台として、とても大事です。
死の恐ろしい側面と、生の心地よい側面はワンセットです。

好きなものだけを周りに集めて、自分で決めた好きなことをして過ごす時間を意識的に作ってみるのはとてもおすすめです。
好きなものに囲まれ、前向きに生きている状態をとりあえず楽しみます。
hygge(ヒュッゲ)という、デンマークの文化があります。
「居心地のいい時間や空間」という意味で、イメージ的には、暖炉を家族や大切な友人と囲んで、好きな飲み物と好きな食べ物を用意してまったりと過ごす時間、という感じです。
ちなみにデンマークは、世界で最も幸福な国ランキングで常に上位にランクインしている国なのだそうです。
何も生み出さない退屈な時間。ただ生きている時間。

ココアにマシュマロ浮かべて、レトリバーを撫でなければ、と型にはまる必要はなく、日本風に言えば「こたつでミカン」「湯船で熱燗」生きている状態を噛みしめる、それだけのことです。

本や映画から他人の人生を借りてくる

退屈を満喫して視野を広げたら

映画や漫画、小説でも、人が作ったフィクションにも他人が生きている姿が描かれています。
そしてそれらを作っている人達も、もれなく生きていて、さらにそれを観る我々も、なんと生きているのです。

物語に限らず、自伝や持論や、とにかく人が作ったものには、その人の生き方が反映されています。
これだけの生き様が無作為に飛び交うと、たまに自分のタナトフォビアにピタッとハマる慰めワードに出会えることがあります。
言葉の持つ力は大きく、自分では決して思いつかないワードだったりもしますから、タナトフォビアに対する視野を広げつつ、いざ怖くなった時の糧(かて)ワードもゲットできるのです。
「自分はこう思うのに」と、自然と自分の考えがまとまることもあります。

ちなみに恐怖症の治療として精神科で行われていた(いる?今も?)「暴露療法」というものがあります。
これは恐怖の対象に触れまくって慣れることで克服する、というものですが、タナトフォビアの場合「人が死ぬ映画、映像を観る」というのがこれにあたるようです・・。
わたしは、暴露療法をタナトフォビアに用いることは、食の細い子に無理やり給食を食わせるくらいにトンチンカンなことだと思っているので、作品を選ぶ時の基準に、人が死ぬかどうかは全く加味していません。

「想像できない赤の他人の人生から、自分のタナトフォビアを慰めてくれるワードを探す」
いつまでも心に残ることというのは、自分では思いつかないことだったりしますね。
気が向いたら参考にしてください(^^)

はじめましてして取り入れる

初対面の人と話すのもタナトフォビアを散らすのに効果的です。
映画や物語ではなく、実際ノンフィクションの生身の他人と関わると、より一層気が紛れます。
単純に、いつもと違う人と、いつもと違う話をするのに気を遣うため、意識がそれる効果もありますが・・

退屈で広げた視野、本や映画から自分の考えの方向性をゲット(排出)、初めましての人と話をしてみる(吸収)
タナトフォビアは恐怖に停滞することです。ひとつの考えに囚われて、身動きが取れなくなっていきます。
入れて、出す、恐怖を抱えながらも循環させていくことで前向きになれたりします。

余裕な時は武器にして、やばい時は散らす

タナトフォビアにライドオンする

タナトフォビアの根本というよりも「対処」「散らし方」について、視野広げることのすすめ。
恐怖を停滞させないことが大切、というわたしの考えでした。

ちりも積もれば・・恐怖に少しでも自力で対処できるようになることで、タナトフォビアそのものを克服する糧ができていくと思っています。