タナトフォビアだからこそ自分の死生観を探そう

      
タナトフォビアだからこそ自分の死生観を探そう

 

タナトフォビア(死恐怖症)になる要因・・きっかけは人それぞれです。

しかし、どのタナトフォビアの人にも「共通する不安」ではないかと思うこと。

死後どうなるか分からないことが怖い

 

たとえ楽天家の人でもショッキングな経験が原因で死が怖くなってしまったり、育った環境が影響することもあります。精神的な特徴、考え方の癖でタナトフォビア、恐怖症になりやすい性格の人もいます。同じ死への恐怖でも怖いポイントが違ったりと、タナトフォビアの人の数だけ、タナトフォビアになるまでの流れのパターンがあるといっていいかもしれません。

「自分が死ぬ」ことの受け取り方は多種多様ですが、タナトフォビアの人の多くはこの「死後の謎」について普通の人 以上に不安を感じていて「知り得ないものは怖い」という原始的な恐怖に度々襲われるのです。

 

しかし自分なりの死生観をきちんと持っている人は、死について冷静に考えることができるようになります。

「死は恐れるに足らない」と言ったギリシアの哲学者がいますが、死後について明確に知ることが出来なくても、自分なりの死生観を確立することで恐怖心を和らげることができるのではないかと思います。

どちらにせよ死後についての正しい答えが導き出されるには、人間はもっとたくさんのことを解明しなければならないはずです。そもそも、真実を知れたとしてもポジティブな内容でなければ恐怖は増しそうですよね。

それか・・もしかすると、死後については決して解き明かせないように設定されているのかもしれません・・。

 

今日は考え方を変えてみよう

 

眠りにつく直前・・「あー死んだらどうなるんだろ・・・」

「・・どうなるか分からない!!! バツーーン!(思考切断)怖い!」

このプチパニックが、タナトフォビアのきっかけのひとつになっているとすれば、別の考え方を試してみるのもありだと思うのです。分からないものは分からないですから、そこは変えられませんが・・

 

「・・どうなるか分からない!!!(好奇心)」

好奇心・・?好奇心・・!

 

もしこんな風に、「分からない恐怖」を「未知への好奇心」にすり替えてしまうことができれば、いいことたくさんだと思いませんか。そんな簡単なことではありませんが・・

ましてや、今さっき怖いって話になったばかりの「死」についてであれば、なおのことです。

どうしようもない時は、形から入るに限ります。本や映画、アート作品に触れたり、とにかく外に出てなんでも経験することで自分の感性を作り上げていきます。よく言うインプットというやつですね・・

自分の頭の中だけで不安や恐怖を払拭するのはとても難しいです。

人の意見に流されてはいけない、とか自分で答えを導き出さなくてはいけない、とか色んな葛藤があると思います。わたしも長い間、自分の頭の中だけで苦しみました。

しかし、外部から影響を受けたということは、自分には無かった価値観を取り込んだということです。新しく取り込んだ価値観を材料にして、独自の考え方を模索していけばいいのです。

 

不安症状に陥っているときは、新しい価値観を・・なんて前向きな考えには思い至れないはずです。なので、騙されたと思って、言われたから仕方なく、是非これを読んでからやってみてください。

一般的(?)に思いつくものだけで、死後の世界観カタログを作ってみようと思います。読んだ人の好奇心の種になればおもしろいな・・という思惑です。

 

死後おしながき

天国へ行く、地獄へ行く

どんな宗教でも大体、生前の行いによって死後に過ごす場所が決まるという価値観がポピュラーです。

キリスト教やイスラム教の場合、死んでからは時が来るまで墓で眠り、時が来ると一斉に生者も死者も集められ、「最後の審判」が行われます。その時に、永遠に神様のそばの天国で過ごすか地獄で炎に焼かれるかを決められる、というのがざっくりとした死後の流れです。

一方ユダヤ教は「死後は土に還る」という徹底した唯物的な死生観を説いています。しかし現代では、ひとつの宗教もたくさんの宗派に分かれていて、同じユダヤ教でも宗派によっては天国と地獄を信じている場合もあります。死後は土って、あんまり受け入れたくないですもんね。そういう理由かはわかりませんが、まあそういう理由なんじゃない・・?って思っちゃいます。

 

ヒンドゥー教では「審判の日」というような終末の観念はありません。死後は「輪廻転生」(生まれ変わり)すると説かれています。仏教でも輪廻転生についての概念はあるのですが、実はお釈迦様の説いた初期の仏教からあったものではなく、末法思想が盛んになった頃に「浄土信仰」と同じような形で広まったものです。後からできた救いのようなものですね。

いいことしていれば、死んだ後極楽へ行けますよ!本当ならこれほどのめでたしは無いですよね。

悪い奴は地獄行きですよ!オッケー、気を付ける!となりますし、あの憎い悪人も死後に報いを受けるんだ・・という慰めにもなります。天国と地獄はとても万能です。

本来のお釈迦様の言葉として伝えられているのは

「死んだらどうなるかは正直俺にもわからないし、死なないとわからない。

あんまり死んだ後のことばっか考えるてると人生めちゃくちゃになるよ」

という旨の、生きることに重きを置いた内容のものです。

 

天国と地獄は、生きているあいだに人が規律を守るために作られたもののように思えてきました。

どうしたら天国へ行けるか という決まりが宗教ごとにかなり違うのもそのためでしょう。聖戦で死なないと天国へ行けない・・なんて宗教もあるくらいですからね。人が想像で作ったもの、となるとなんとも切なくなりますが、もし天国と地獄という概念が無い世の中・・という想像をしてみると、無法地帯になってしまうのは容易に想像できます・・。

結局人は、ムチの存在をチラつかされて悪行を思いとどまります。下痢タイプの腹痛を催した時に、急に謙虚になって天の神様に謝る現象は、天国と地獄があるから起こり得るのかもしれません。

 

死後は無

物質主義の現在は、多くの人が「死んだら無」という感覚を持っているようです。

この考え方の人のほとんどが無神論者で、今自分が体験している現実世界が全てだと考える傾向にあります。

 

確かに、信じるものは人それぞれ。それはいいとして、気になるのは「無」ってどの程度「無」だと思ってるのかなというところなのです。うまく言えないのですが、無ってどういう状況のことを指してる?という疑問です。

例えば何もない暗闇に「いる」状態というのは無とは言えませんよね。何もない暗闇も「在る」し、そこにいる状態も「在る」わけです。

もし「死後の無」が本当に存在するのであれば、それは無とも感じられない無のはずです。無」を見せてもらっている状態が「無」ではないよね?という。つまり死後の無は「真っ暗闇に放置されること」なのか「感覚も存在も何もない状態」なのか・・死後は無派の人たちって、考えることを放棄して無だと言っている人も一定数いたりして、無の定義が結構曖昧だったりします。

肉体は綺麗に焼いてもらったとして、自意識のない状態、どこにも存在しない状態、つまり消滅。そうなると魂は使い捨てということ?コスパ悪い気がするんですよね。地球では水も循環しているのに、魂ほどハイクオリティーなものが使い捨てってらしくないなと思えて、わたしが「死後は無説」を受け入れられない理由だったりするのです。

単に無が怖いというのもありますが!

 

幽霊になる

これ、幽霊になる側からすると夢がありますよね。

見ちゃうとかは怖いですし、「怨霊」となるとなるべく関わりたくないですが、幽霊を題材にした作品は映画や小説、マンガなど大量にあり、その世界観も様々です。

映画では「ゴースト ニューヨークの幻」が大変有名ですよね。主人公が幽霊になっても、恋人の命を危険から守ろうとする結構緊迫したストーリーです。しかし、劇中あちらのしきたりがあったり、ちょっとしたベテランの霊が出てきたりして社会を感じさせる所に夢があります。

現世にやり残したことがあると幽霊になる、というのは民間伝承だったり、いわゆる「お寺系」の話でよく耳にします。残された家族の枕元に、メッセージを伝えに来る・・なんていうのも聞きますよね。実はわたしにも経験があります。

わたしが中学生の頃の話ですが、可愛がってもらった祖母がすい臓がんで亡くなりました。ひとり暮らしの祖母は、治療費のことを気にしてすい臓がんの痛みを末期まで我慢していました。なので、癌が見つかってから亡くなるまで本当にあっという間でした。

ちょうど高校受験を控えていたわたしは、一度お見舞いに行ったきり、受験を理由に病院に行きませんでした。実際には末期患者の集まる病院の雰囲気が恐ろしかったこと、祖母から漂う死の香りに近づくのが嫌だったのです。まさか亡くなるとは思っておらず、高校に合格したらお見舞いに行こうとのんきに思っていた矢先に死んでしまいました。

祖母が孫のわたしをどれだけ好きか知っていましたから、自分の度胸のなさを呪い、本当に後悔しました。怖いとか嫌だとか、そういう理由でわたしは祖母の死に目を寂しいものにしてしまった。毎日後悔して、せっかく受かった高校も逃げ場の象徴のように感じられ、抜け殻のように過ごしているときに夢に祖母が出てきました。

夢の中で、祖母が一人で暮らした狭い平家にわたしはいました。親戚が何人か集まっていて、部屋の真ん中に祖母が座っていました。「あ、おばあちゃんだ!」わたしは寄って行って泣いて謝りました。あれがごめん、これがごめんとは言わずにただ謝っただけでしたが、伝わっているようでした。「いいだよう」と祖母は言っていました。なぜか声だけ耳元で聞こえました。・・ただの夢、なんですが起きてからわたしの頭と心は完全に晴れていました。不思議なことに。あれは今思い出しても、本当に会って謝って許してもらった時の晴れ方でした。

人の目に見えないものの存在は徐々に明かされてきています。「第六感」がオカルトでなくなる日がいつかやってくるような気がします。

死んでも自意識があり、現世にある程度介入できるというのが一般的な幽霊の解釈です。生きている人間でなく「幽霊」という立場から、今までいたこの世をうろつくことができる・・という、セカンドライフと言えるような状態に、少しときめきを感じます。

 

別の次元に移動する

この話題、理論物理学や宇宙論を絡めて最近ホットです。

別次元といえば、数年前にマヤ暦の終わりのタイミングで流行した「アセンション」というのがありました。「魂の位をあげてアセンションを成功させましょう!!月額○千円のメルマガ講座、ヒーリング、スピリチュアルオフ会!!」みたいな、宇宙にアクセスできる美人ババアがたくさんいましたが、最近は減ってきました。

この頃は新しい宇宙論や、証明されたばかりの理論などから考察する「多次元」「アセンション」の話題が増えてきて、結構面白いです。全然詳しくないので、自分ではきちんと展開できないですが・・

そもそも今生きているという状態が意味不明で、なぜ自意識が存在するのか?なぜ過去から未来に時が進むのか?なぜ時間と空間の中に身を置いているのか?こういった問題を本気で研究する分野が多くの説を発表しています。

そもそもどうやってここに来たのか?現実世界って何?存在って何?というような根本的な謎を解き明かすことで、死後についても知れることがあるのでは・・とワクワクしています。

今の状態は3次元に捕らわれているのかな、とか死んだら次の次元に行くんじゃ・・とか、別次元では自意識はあるのかな・・とか、これこそ死後への好奇心と言っていいのでは!

 

見えるものが全てじゃないかもねって話

自然界では全てのものが循環していますから、魂もその循環に組み込んでもらえてるのではないかと。

亡くした祖母の夢の話をしましたが、目に見えて触れるものの他に、確かに「感じるもの」があって、そこにこそ死後の謎が隠されているとしたら・・

死は極めて身近で、大げさに怖がるものではないのかもしれません。

わたしたちが怯えてる「死」の実態が、子供が大人ってこうだよねって言っているようなものだったらいいなと思います。自分を含めたタナトフォビアの人たちが強く抱えてる不幸、恐怖、孤独、虚無…っていうイメージは「それはお前が死んだことねえからそう思うんだろ」っていう産物だったら面白いですよね。

 

 

まとめ

こんな感じで、偏り気味の死後カタログは以上です。

タナトフォビア乗りこなしの第一歩、死生観について考える材料になれたらいいのですが・・!

これを書くのとっても楽しかったし、これを見た人が自分の死生観について改めて考えてみてくれると思うと、なんかこうグッとグッと・・(語彙力)。