宗教ごとにここまで変わる死生観。あなたがしっくりくるのは?

      
宗教ごとにここまで変わる死生観。あなたがしっくりくるのは?

死んじゃったらその後どうなるんだろう・・・

タナトフォビア(死恐怖症)である人もない人も、きっと子供の頃には必ず一度は考えたことがあって、なかには大人に質問したことがある人も多いと思います。もし、質問したことがある人は、大人が子供のあなたに答えてくれた死生観を覚えているでしょうか?
そして、もし今あなたが子供に素朴な疑問を投げかけられたら、なんて答えますか?

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実は誰もが持ってる『死後』のイメージ

わたしは小さい頃、祖母や母とか、家族によく質問していました。

なぜこういうことを聞く相手が家族だったのかと今考えると、感覚的に『血のつながり』というものは特別なのをわかっていたのではないかと思います。「家族が死んだあとそうなるなら、じゃあ自分もそうなるんだろう」という当たり前感があったんだと思います。

「お星さまになるだよ」

「お空で上から見てるだよ」

「神様になってわたしらを守ってくれるだよ」

子供の頃は、このあたりを言い聞かされて、わたしはそれを信じていました。わたしは田舎の出身なので、当時夜になると星がよく見えました。その星が全部すごい遠くにある死体だと思っていましたw

「ご先祖様が見てるから、悪いことはせんどこ」というのは、大人になった今でも、自然と染みついている考え方です。普通に生きていたら、結局悪いこともそこそこしてしまうのですが、その染みつきかたといったら

「やべ!死んだあとばちがあたる・・・」

と、いまだに思うこともあるほどです・・

お腹がめっちゃ痛いときに、神様にめちゃめちゃ謝った経験は皆さんもあるでしょう・・。
言い聞かせられて育っただけと言えばそれまでですが、これも立派は『死生観』なのではないかと思います。「死生観って宗教のことでしょ?」と繋げがちですが、普通に生きてきて、色々見聞きして、死んだらたぶんこうなるんじゃないかと思う。という考えは、誰しも持っているものですよね。

死んだ後どうなると考えているかによって、生き方は変化していきます。

だいたいの宗教は、死後について言及しています。どうすれば、死後に良い思いができるかは、宗教ごとの『おすすめの生き方』によって違います。だからこそ宗教が争いの原因になったり、政治に利用されてしまうこともあります。

まとめるためにちょっと調べて思ったことですが『死生観=生き方』な訳で、そりゃ宗教違ったら揉めるわ・・・という感じです。

さて、では世界で代表的な宗教、日本の宗教の死生観をちょっと解説していきます。もしなにか間違っていたら、こっそり教えてくださいね・・!

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キリスト教の死生観

宗教分布図を見ると、世界中で最も教徒が多い宗教です。

アメリカ、南米、北欧、ロシア、アフリカあたりで『メインに信仰されている』といってよい宗教です。

キリスト教での『死』は人間の原罪に対する『刑罰』

原罪というのは、旧約聖書でよく知られている、この世で最初の人間である『アダムとイブ』が禁断の果実(リンゴ)を取って食べた罪のことです。ここでのリンゴは『善悪の知識の実』という意味で、これを食べたふたりは、無垢ではなくなってしまいます。それまでは、裸で動物みたいにキャッキャ暮らしていたけど、知識がついて、なんか恥ずかしくなってしまったと。知恵がついたことで、怒りとか嫉妬とか複雑な感情も持つようになってしまったと。そこで神様は、ふたりを楽園から追放して、女に産みの苦しみ、男には労働の苦しみ、そして『死の定めも与えた』と。
そして、その罪は全ての人類にも及んでいる、という教えからくる概念です。

聖書に『魂は不滅』という記述はない

聖書自体に来世とか、死後の世界の記述はありません。生きた魂=呼吸する生き物、という前提で聖書には書かれています。でもキリスト教には天国、地獄、煉獄という考え方がありますよね。
実はこれ、教会での教説を行うなかで、途中から作られたものなのだそうです。

キリスト教に伝わる最後の審判

最後の審判というものが存在して、『その時』が来ると生きている者も死んでいた者も、全員復活して神の裁きを受けます。もし生前キリストを信じていれば、最後の審判のあと、死後永遠の命を与えられます。だからキリスト教信じようぜ、という教義ですね。本気で練習して、全国行こうぜ!みたいな感じに似てます。確かにこういうのがないと、統率取れないですよね。

ユダヤ教の死生観

ユダヤ教はもともとはユダヤ人による民族宗教ですが、ユダヤ人は迫害されながら世界中を移動してきた経緯があるので、世界中に分布しています。

『ユダヤ人』というのは、日本人、みたいに暮らしている地域のことを限定している呼び方ではありません。

『ユダヤ教徒=ユダヤ人』であって、もしインド人のユダヤ教徒なら「インド系ユダヤ人」となります。

ユダヤ教に『死後の世界』は存在しない

ユダヤ教は、日頃の行動や生活の教えを重視するのが特徴です。例えば、働き方だとか、人間が生きているあいだに重要な教えが多いです。基本的なユダヤ教における『死後』についてですが『死んだら土に帰る』という、かなり現実的なもの。

宗派によっては天国と地獄の概念もある

唯物論的なユダヤ教ですが、各方面に散っているだけあって宗派も結構分かれています。なかには、キリスト教の影響を受けて『最後の審判』を信じているユダヤ教徒もいるようです。もともと、アブラハム系から分裂したものがユダヤ教とキリスト教、ということを考えると、兄弟分ですから馴染みやすいのかもしれませんね。あと、ユダヤ教は「他宗教からの改宗者を愛せ」という教えがあります。他に比べてオープンな感じが、ちょっと仏教に似ています。

天国と地獄の概念はゾロアスター教が起源

あらゆる宗教にちょこちょこ登場する『天国と地獄』の考え方ですが、元はゾロアスター教が発端です。最後の審判とセットで信仰されていたのを、アブラハム系の宗教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が「ええやん、採用!」とした流れです。
確かに、規律を守らせるためには天才的なひらめきですよね。やばい、地獄に落ちる!ってなるもんね。

イスラム教の死生観

中東、西アジアが主な分布ですが、移民の影響もあって世界中に広がる宗教です。

『死=来世への門』という考え方

イスラム教では、現世の姿は『仮の姿』であるとされています。死ぬことは来世への門に向かうことであって、死後に楽園に行くために現世を頑張って生きている、といった感じです。イスラム教にも『最後の審判』の教えがあって、その時が来たら唯一神によって、楽園行きか地獄行きかが決められます。

最後の審判なしで楽園に飛び級でいける方法

イスラム教には、最後の審判なしで楽園に行くチートな方法があります。それは、唯一神アッラーのための戦争『聖戦(ジハード)』で戦って、殉死することです。つまり、神のために戦争して死んだら即天国ですよということです。
これ「じゃあ、戦うし死ぬし、殺すわな!」ってなりますよね。殉死を称賛するのが教義なんですからしょうがないですよね。過激派はここに重点を置いちゃってるということでしょうか。まさしく『死生観が生き方を作る』状況であると言えます。

聖戦で死ななかった方はこちら

わたしの知っているイスラム教徒は、穏やかで、お祈りを欠かさず、感謝の気持ちを素直に表現する人でした。そういう穏やかなイスラム教徒は、死後は墓の中で最後の審判を待ちます。
ちなみに、イスラム教徒でない者は『墓の中で罰を受けながら』復活を待つことになるそうです。ひどいw 復活はさせてもらえるみたいですが、イスラム教徒じゃない時点で、たぶん審判アウトですよね。

西洋の文化で亡くなった後に土葬をする伝統があります。土葬は、最後の審判のときに復活するから、その時に帰るための肉体が必要、という考え方によるものです。

ゾンビ映画や、たまに洋画で観る『仕方なく仲間の遺体を火葬する時の悲痛な面持ちのシーン』も、宗教を絡めると見方が変わってきますね。

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ヒンドゥー教の死生観

ヒンドゥー教は、インドやネパールに大多数の教徒がいます。

『ヒンドゥー』は『インダス川』という意味の言葉です。

精霊信仰を行う、いわゆる土着の宗教です。

ヒンドゥーでは死後『輪廻転生』する

ヒンドゥー教は、世の中の様々なものに神様が宿ると伝えられている多神教です。全ての生き物の命は、ひとつの輪に繋がっているという概念を持っています。魂が器を変えて、廻り続けるという概念から、ヒンドゥー教では、誰にでも前世があり、死ねば来世があります。
肉体には終わりがあるけど、魂にははじめも終わりもなく、誰もが輪廻に組み込まれた存在という考え方です。

遺体の扱いにも死生観が垣間見える

ヒンドゥー教では、魂が輪廻した後の身体、つまり『遺体』は抜け殻の状態ということになります。インドでは、死んだ人をガンジス川に流す方法で供養しますよね。「え、川に流しちゃうの?」という感じですが、身体が魂の器という価値観であれば、納得です。

最後の審判や復活の教えもないので、遺体を人の形のままキープしようという感覚ではないみたいです。最近では、火葬した後の灰をガンジス川に流すパターンも増えているとのこと。貧困層の人は、施設で火葬するお金を捻出できないので、ちょっとだけ炙るように焼いてからガンジス川に流すのだそうです。

輪廻転生とカースト制の関係

インドでは、輪廻転生の概念が根強いことで、カースト制がなかなか根絶えない、という問題もあるようです。
『カースト制』は、インドに根付く、生まれ持っての社会的身分制度のことです。カーストは、現代のインドでも進学や結婚に差し障ることがあり、問題視されています。下層カーストを救済する支援団体もあるのですが「カーストを守らないと、輪廻転生した時に今よりひどいカーストに生まれ変わってしまう」という理由で、支援を断る人もいるんだそうです。

そもそも「現在下層カーストなのも、前世のカルマだから受け入れるべき」という。あくまでも『ひとつの大きな輪の中に存在するちいさな自分』という感覚です。

仏教の死生観

元はインドで生まれた宗教ですが、現在教徒が最も多いのは中国です。

あとは、日本や台湾などの東アジアに住む人々が世界の仏教徒の大半を占めます。

もう二度と生まれてこないように頑張る

ヒンドゥー教でも出てきた『輪廻転生』の概念は、仏教にもあります。輪廻転生は、人は生と死をずーっとずーっと繰り返すものです。
この世に生きている限り、人生は死の恐怖や病気、老いなどの『苦しみと共にある』状態です。仏教は、そんな世界から解脱して、輪廻の輪から抜け出すことを目標にしています。つまりもう二度とこの世に生まれないように生死を繰り返しながら徳を積んでいこうね。というのが大まかな死生観です。

この世に生きていることそれがそのままに涅槃である

もともと仏教は、死後のためのものではなく、生きている状態で苦しみを取り除くための修行のことでした。苦しみというのは、生きているとどうしても思い通りにならない『死にたくない』もそうですよね、欲とか怒りとか煩悩が生み出される、と。それを消し去る、つまり変化とかを受け入れて、悟ることを目指そうぜ。というのが本来の仏教です。

浄土信仰は後から生まれた概念

本来は、煩悩をコントロールして生きるための教義だった仏教にも、死後の世界についての概念があります。『浄土信仰』は仏教の宗派である浄土宗から生まれた考え方で、あとから生まれたものです。
奈良時代にはすでに一部の宗派が浄土信仰をしていて、のちに平安貴族が「死んでからもいい暮らししたい!」と考えたことで浄土信仰が流行りました。そして、一般にも定着したというのが浄土信仰の流れです。

キリスト教の最後の審判とちょっと似てますね。やっぱり、死後に自我を持ってちょっとゆっくりできるところがあると思わないと、怖くてやってられない・・というのは世界共通。しかも宗教を一般に普及させるためには、信じたらもらえるご褒美が不可欠ですもんね・・。

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神道の死生観

神道は日本で生まれた土着の宗教です。

聖書のような教典はなく、創始者のいない宗教です。強いて言えば、古事記とかの古典が神道の聖典です。

宗教というより道、心構えという感覚に近い、日本人が持つ生き方への概念です。

神道の神様は『元人間』

神道でいう神様は、祖先の霊や怨念を残して亡くなった人のことです。死んだ人間を敬って神として奉ります。神様は元人間というわけです。今まで様々な宗教について説明してきましたが、これは新しいですよね。

神道における守り神とは、自分たちの先祖のことです。つまり、もし自分たちも死んだ場合、先祖神に仲間入りして自分も神様として子孫を見守ることになります。人→神という連続性が特徴です。「死んだばあちゃんが見守ってくれてる」というのは、つまりこういうことです。

神様がしこたまいる

神道の神様は、実は人間だけではありません。自然物や自然現象も神として奉ります。例えば、神様がいる山とか、お稲荷さんとか、お米粒とか、何にでも神様が宿っているという考え方です。この世には『八百万の神』がいるとされ、神様たちが協力して、自然を守ってくれていると。なので、自然と祖先に敬意を払いましょう。という風に、日本の部落や村でそれぞれ信仰されてきました。

日本人の「上(お天道様)から見られてる」という感覚は、神道の影響を受けていますよね。昔、トイレの神様とかありましたが、誰かしら見てる感じって、小さい頃に言い聞かされた神道由来の感覚なのではないかと思います。

人to自然で完結する

神道の価値観では、人は神(自然)から生まれて神(自然)に帰る流れの中を生きていて、死後の世界とか、天国と地獄は出てきません。神様の数は多いですが、かなりシンプルに、人と自然で死生観が完結しています。

でも、古くから伝わる宗教に『死後の世界はある』という一文を見つけたいという気持ちで、みんな宗教について調べます。そこで、死後の世界についての記述がないと、どうしても怖いと感じます。自分が生まれる何千年も前から言われていたことなら、ちょっとは説得力があるのに、と。

4種類の宗教の価値観について書いてきましたが、やっぱりイスラム教、仏教、神道などのアジア圏の宗教について書くときは、安心感がありました。自分が日本で育った日本人だから、しっくりきているのだと思います。
偏っているつもりはなくても、死生観=生き方なんだな、と感じます。神道の自然を巡る感じとか、いさぎよくて「そういうものなのかな」とちょっと諦めがついたような感じもするのです。本当は楽園とか行けた方がいいのにです。

後付けの天国からもわかるように、死生観が違っても死の恐怖は世界中の人にとって平等なんですね。死別は辛いし、意識の消滅は不安というのは、みんな一緒でした。
なんでも吸収して咀嚼して、自分なりの死生観を持つことが、死の恐怖を軽くする大事なプロセスだと思ってます。

ちょっとでもこの記事が役立てば、と思います。