死後は無になるとか簡単に言われて、怖くなったら読んでね・・

      
死後は無になるとか簡単に言われて、怖くなったら読んでね・・

 

「人はどこから来て、どこへ行くのか・・・」

 

このフレーズ自体は かなり使い古されていますが、正しい答えが証明されない限り、これからも何度も耳にすることになるでしょう。
ヒトが誕生してから文明を持ち、最初の誰かがふっと、俺たちっていったい何者なんだろう?と思いついてから、優秀な科学者、物理学者、宇宙科学者が登場する現代に至るまでの間、人類が立ち向かっている謎です。

 

もしこの答えがわかったら、いつか訪れる死の恐怖は漠然としたものではなくなるでしょう。

もしくはもっと憂鬱なものになるか、それとも取るに足らないちょっとした変化になるか・・・

 

 

死んだ後のことが解明される日を待つ?

 

次元(時間と空間)や生命の根源について、ここ10年程は飛躍的にどんどん新事実が明らかにされています。

私たちが子供の頃・・平成初期に、テレビにかじりついて見た科学情報番組も、今見返せばさっぱり古い内容です。
(たけしの万物創世記だいすきでした・・!)

 

ある程度のところまでは解明できても「人間の英知の限界」というのが存在する、なんて言われていたりして、死の向こうについては絶対に知れないようになっているんだという意見もあります。

川が逆流しないのと同じように、またはネズミ返しのように、生の世界にいる生き物は立ち入れない死の世界という領域・・という感覚はわかります。

この途方もない問題を「死ぬのが怖い!」というある種のパニック状態、かなり感情的な動機から考えたところでますます恐怖が増すばかり、そしてきっと冷静ではありませんから真相も分からないでしょう。

しかしながら、死は怖いものです。

自分も必ず死ぬのだ、ということを考えるとパニック状態、もしくはうつ状態になってしまい生活諸々どころではなくなってしまうことを、タナトフォビア(死恐怖症)といいます。

 

「死後のこととか宇宙のこと考えだしたらめっちゃ怖くて寝れん」

これってタナトフォビアの人間からすると、生活に食い込んでくる わりと大きな問題なんですよね・・

 

自分のタナトフォビア(死恐怖症)によく効く「自分なりの答え」を持つことが、これからもっとスムーズに生きるため、タナトフォビア克服のための第一歩に繋がります。

 

「自分で築いた」自分の答えであることが重要です。

受け売りではなく、こういうものからこういう影響を受けて、それによってこう考えて、こう思っています、と自分なりに筋の通った死生観を持つことで、冒頭に書いた「まだ解明されてないこと」に必要以上の恐怖を感じなくなります。
恐怖でなく好奇心を持つことができるようになります。

死後は無だろwとふいに言われたくらいで、いちいち縮み上がることもなくなるってなもんです!

 

たとえば死んだら無になるって簡単に言う人

死んだら無になるー」って言う人は結構たくさんいます。

考え方は多種多様、死生観もまた多種多様なので決して否定はしません。

しかし、それってほんとに「自分の考え」を話してんの?という感想をわたしは持ちます。

 

 

詳しく聞くと「死後は無派」の理屈は大体この2つ

  • 普段寝てるときには意識がないから死んだときも無になる
  • 死んだら脳みそも死んでるから何も考えられなくて無になる

 

これは、すべて生きている人間側からの視点なんですよね。
じゃあなんだあんた寝てるとき死んでんのか?というのが素直な感想

死後も生きている状態のルールが適応すると決めつけての意見です。
絶対無!と言い切るには、さすがにちょっと弱いのではないでしょうか?

 

死が怖いと感じる人たちは、死んだ後のことが謎で不安で、その未知の状態の話をしたいと考えています。

そして、生きている状態の仕組みはみんな知っています。

死後については文字通り、次元が違うということですから「生き物にとって当然」である事柄はいったん端に置いておいて考えてみたいものです。

 

タナトフォビアの人間のことを念頭に置いて労われだとか、電車では席譲れということではありません。

いともたやすく「死後は無」と断言してしまう人、もっといろんな想像をしよう!というのと、とりあえず怖いからやめてくれということでした。

 

死後は無だろwって言われて縮み上がったら

とは言っても、数十年前までは神の力だ と信じられていた現象も、次々と解明されていく現代です。

どうしても、物質主義的な意見を持つ人が多数だと思います。

 

不安を抱えながらちょっと死んだ後の話をすると、「死後は無」だと自信満々に断言する人に出会うことも、これからますます増えてくると思うのです。

ちょっと思うのですが、もしかして、あの世とか魂とかについて話すこと自体が、サンタさん信じてるみたいな感じで恥ずかしいって感覚だったりするのかな。

 

死後は無、こそ冷静な大人の意見という風潮があるような気がします。(2018年現在)

 

かといって「俺はタナトフォビアだから、やめてくれ!」と都度言ってまわるわけにもいきませんね。

毎度毎度話を広げられずしょんぼりした後に、その日寝付く前に怖くなる・・という状況は回避したいものです。

 

あるいは自分自身がふいに「あ、あれ・・死んだら無じゃね?バクバクバク」と思ってしまった時・・。

ひたすら怯える、考えないようにする、ではなく自力で心を落ち着けられるようになることを目指したいものです。

 

自分のマインドは自分で操ろう

 

じゃあ、落ち着くためにちょっと考えてみましょう。

 

例えば、生まれる前の記憶がありますか?

たまにそういう人がいるって聞きますね。

 

胎内での記憶を持った子供とか、前世の記憶が混同して知るはずないことを知っていたり・・なんていう話一度は聞いたことあるのではないでしょうか?

 

「全部ねつ造!ありえない!」と思う人もいるでしょう。

なにこの記事スピリチュアル系?!と拒絶反応が出る人もいるかも。

 

まあ、実際にそういう記憶がある人がいるとして、本来は一般的ではない現象ですから、きっと「人は生まれてからの記憶しか持てない」という自然の戒律のようなものを、何かの事情ですり抜けることが出来てしまったということなんでしょうか。

「全部でっちあげ」なんていい始めると何も信じられなくなってしまうので、そういう人もいるのかなくらいにわたしは思うようにしています。

だってわかんないじゃないですか?死んだことないんだから?

何か死後について書かれているものがあれば、避けずにひとまず吸収してみることをお勧めします。

明らかに金儲けしようとしている場合は論外です。

 

「そういうの怖くなっちゃうから・・」といわず、思い切ってまずインプットしてみる

「自分の死生観」を作る大きな助けになります。

すでに出来上がった説を頑張って信じるのではなく、死について自分の見解を持つことです。

 

 

ゆるーく生命を遡ってみる

 

わたしたちが日頃食べたり飲んだりして、一生懸命維持している自分の命。
はじめからこんな風に自力で生きていたわけではありません。

命を失うのは恐ろしいことですが、その命とはそもそもなんなのかゆるっと遡ってみます。

 

精子は下垂体ホルモンや男性ホルモンの影響で日々作られます。

卵子は非常に不思議なことに、いずれ卵子になる「原子卵胞」といわれるものが、胎児のうちにすでにできています。

人間の女性は一生分の卵を蓄えた状態で生まれてくるということです。

 

受精卵が誕生し、胎内でいい具合まで成長していきます。

では、精子と卵子はそもそもいったいどこから・・?

 

養分を摂取しなければ身体の中でなにも生成できませんし、繁殖パワーも湧きません。

つまり私たちのもともとは「親の一部」ということになり、

生き物と呼べる状態までの成長の源は「母親の食べたゴハン」ということになります。

 

わたしたち、もともとはゴハン・・・?!

ゴハンがものを考えたり、死ぬのを怖がったり・・?

 

 

つまり「自意識」が謎すぎる

「自意識」っていつごろ持ったのか覚えていますか?

 

ちなみにわたしは、2歳くらいから考えてたことの記憶があります。

 

ミシンを使う母親の背中に乗って遊んだこと。
車で近くの海浜から砂を運んできてもらい、その砂で庭に砂場を作ってもらっていて、そこで遊ぶのが大好きでした。

 

まだ幼稚園に通い始める前、朝初めて自発的に起きて
(おはよーって挨拶すればえらいこって褒められるかもしれない!)

と期待して母と祖母がテレビを見ている部屋に走って行ったのも覚えています。

 

自我、物心というやつですね。

自意識を持つことそのものが「生きている状態」といってもいいくらい、人間は自意識を頼りに生きています。

この自意識を消滅させること、思考からの解放を求めて自殺する人たちが後を絶たないのも現実です。

 

Q【かぼちゃ】=【自意識】はいつ死んだか

以前「かぼちゃはいつ死んだか」というテーマの、あるご住職の書いた文章を読んだことがあります。

かぼちゃの天ぷらを前にして、このかぼちゃはいつ死んだのか、を数名のおばあちゃんが議論する様子が語られています。

 

様々な意見が出ます。

カットされてかぼちゃの形じゃなくなった時?

高温で揚げられた時?

飲み込まれた時?消化された時?

 

A【かぼちゃ】=【自意識】はいつ死んだか

最後ご住職は結論を出しますが、これは物凄く腑に落ちて、納得しました。

 

「育った畑からの別れ、隣り合ったかぼちゃとの別れ」を理由に、人にとっての死と同じ状況は、かぼちゃを蔓から切り離したときだという風に文を締めていました。

 

カットかぼちゃ

天ぷら

おばあちゃんの栄養分

うんち

 

 

かぼちゃはかぼちゃでなくなってからも、形が変わっても、ずっと「消滅」はしません。

親が食べたゴハン(栄養分)で人になったOSUが変化して、どこかの段階で魂が入りました。

 

意識を持つに値する状態になったから意識を持つことができたのだとしたら。

死の直前、意識を持つに値する状態でなくなったから意識を手放すことになった・・・。

 

 

かぼちゃは蔓を切られた時点で死んでしまったけど、その後天ぷらになりました。

わたしたちも蔓を切られたつまり”死後”、台所で天ぷらになるのかもしれないですよね。

これが憶測でしかないのは、畑で天ぷらは揚げないからです。

畑の私たちは台所の存在なんて見たこともないし、これからも知る由がないのです・・・

 

 

怖いからこそもっと死を見つめる

これってオカルト的な話ではなく、次元的な話であると思っています。

次元についての話では、2014年の映画「インターステラー」が衝撃的でした。

今現在目に見えてる、感じてるということがどれだけ曖昧なことであるのか、フィクションですが腑に落ちるように、物理学的に描かれていました。

 

 

死を恐怖するというのは、つまり自分がいつかかぼちゃ(自分)でなくなることに恐れを感じるということでもあります。

人間は自分の心や意識にべったりと頼って生きてるし、自我の認識も他の動物より強いと言われています。

しかしながら、だからこそ人によって生み出せる言葉、芸術、環境がそれぞれあります。

その多様性で人間はここまで進歩してきたんですもんね。

 

その意識がいつかなくなる日が来るのかもしれない、と思えばとてつもない恐怖を感じます。

 

 

チャップリンが映画の中で「僕は死ぬのが楽しみだ」と歌っていたのを思い出しました。

この価値観も衝撃でした。イワシの歌といったかな・・

身近な死を吸収して、この歌のようにいつか思えたら、タナトフォビアを克服したことになるのではないでしょうか。