死後は無になるとか簡単に言われて、怖くなったら読んでね・・

      
死後は無になるとか簡単に言われて、怖くなったら読んでね・・

「人はどこから来て、どこへ行くのか・・・」

このフレーズ自体は かなり使い古されています。でも、正しい答えが証明されない限り、これからも何度も耳にすることになるでしょう。
ヒトが誕生してから文明を持ち、最初の誰かがふっと「俺たちっていったい何者なんだろう?」と思いついてからというもの、優秀な科学者、物理学者、宇宙科学者が登場する現代に至るまで、人類が立ち向かっている謎です。

もし、生き物が死んだ後どうなるのかわかったら、いつか訪れる死の恐怖は漠然としたものではなくなるかもしれません。またはもっと憂鬱なものになるか、それとも取るに足らないちょっとした変化になるか・・・

『死ぬのが怖い』は克服できる?そもそも克服って何?

『死んだ後』のことが解明される日を待つ?

次元(時間と空間)や生命の根源について、ここ最近、どんどん新事実が明らかにされています。例えば、私たちが子供の頃・・平成初期に、テレビにかじりついて見た科学情報番組も、今YouTubeなどで見返してみれば、さっぱり古い内容です。
(たけしの万物創世記だいすきでした・・!)

もし、ある程度のところまで謎を解明できても『人間の英知の限界』というのが存在するのではないか、なんて言われていたりしています。つまり、死の向こうについては、生きている間は絶対に知れないようになっているんだという意見もあります。

川が逆流しないのと同じように、またはネズミ返しのように、生の世界にいる生き物は立ち入れない死の世界という領域・・という感覚。こういう途方もない問題を「死ぬのが怖い!」というパニック状態で考えたところで、ますます恐怖が増すばかり・・。そして、その時ってきっと冷静ではありませんから真相にも辿り着けないでしょう。

改めて強調しますが、死は怖いものです。

自分も必ず死ぬのだ、ということを考えるとパニック状態、もしくはうつ状態になってしまうことを『タナトフォビア(死恐怖症)』といいます。

「死後のこととか宇宙のこと考えだしたらめっちゃ怖くて寝れん・・」

こういう状態は、タナトフォビアの人間からすると、生活に食い込んでくる わりと大きな問題なんですよね・・。考える時間も気持ちも全部『死ぬの怖い』に持って行かれてしまうわけで。すると、生活がままならなくなってくることもあります。

そこで、自分のタナトフォビア(死恐怖症)によく効く『自分なりの死との関係』を築くことが、スムーズに生きるため、タナトフォビア克服のための第一歩に繋がります。重要なのは『自分で築いた』自分の答えであること。

丸ごとの受け売りではなく、こういうものから影響を受けて、それによってこう考えて、こう思っていますと、自分なりに筋の通った死生観を持つことで、冒頭に書いた「まだ解明されてないこと」に必要以上の恐怖を感じなくなります。
生きているという状態に、道への恐怖ではなく好奇心を持つことができるようになります。

つまり、ポッと出の人間に「死後は無だろw」とふいに言われたくらいで、いちいち縮み上がることもなくなるってもんです!

「死んだら無になる」って簡単に言う人について考える

死んだら無になるー」って言う人は、結構たくさんいます。考え方も死生観も多種多様なのは当たり前なので、決して否定はしません。しかし、それってほんとに「自分の考え」を話してんの?という感想を、わたしは持ちます。

詳しく聞くと『死後は無派』の理屈は大体この2つ

  • 普段寝てるときには意識がないから死んだときも無になる
  • 死んだら脳みそも死んでるから何も考えられなくて無になる

これは、すべて生きている人間側からの視点だったりします。
じゃあなんだ、あんた寝てるとき死んでんのか?というのが素直な感想

死後も生きている状態のルールが適応すると決めつけての意見です。絶対無!と言い切るには、さすがにちょっと弱いのではないでしょうか?

「死が怖い」と感じる人たちは、死んだ後のことが謎で不安で、その『未知の状態の話』をしたいと考えています。対して、生きている状態の仕組みはみんな知っています。みんな生きているのですから、現状ですよね。

そこに持ってきて、死後については文字通り『次元が違う』ということですから『生き物にとって当然』であるルールは、いったん端に置いておいて考えてみたいものです。決してタナトフォビアの人間のことを念頭に置いて労われだとか、電車では席譲れということではありません。

ただ、いともたやすく『死後は無』と断言してしまう人、もうちょっと考えてから言ってくれというのと、とりあえず怖いからやめてということでした。

「死後は無」ってなって縮み上がった時はどうしたらいいか

少し前の時代では「神の力だ」と信じられていた現象も、現代では次々と解明されています。金縛りは睡眠麻痺だし、心霊写真は二重写しだし・・こんな風に真相が簡単に知れるようになると、どうしても、物質主義的な意見を持つ人の方が多数だと思います。説明がつかないことなんてないんだ、と思ってしまいます。

あなたが不安を抱えつつ、ちょっと死んだ後の話をすると「死後は無だ」と自信満々に断言するような人に出会うことも、これからますます増えてくると思うのです。書きながらちょっと思ったのですが。もしかして、あの世とか魂とかについて話すこと自体が、サンタさん信じてるみたいな感じで恥ずかしいって感覚だったりするのかな。

死後は無、こそ冷静な大人の意見という風潮があるような気がします。(2019年現在)
だからこそ現世で(現世とか思っているかどうかはわかりませんが)、効率よく稼ごう!地位を築こう!みたいなのが、トレンドの大人って感じです。でもそれ、死んだ後どうなるか、わからないから頑張るでもいいんじゃないかと思うんですよね。もし、深く考えたくなくて死後は無なんだ、と思っているのであれば、とりあえずわからないの方が前向きだと思いませんか。
わからないけど、考えている時間も生きている時間のうちに入るから、とりあえずやることやっとく、頑張って生きとくで良いのでは。

考えたくなくて『死後は無』あるいは、いくら考えても『死後は無』だと思っちゃう、という人は、どれだけ考えても答え合わせできることはないのだから『死後は保留』にして生きる。あるいは、自分自身がふいに「あ、あれ・・死んだら無じゃね?バクバクバク」と思ってしまった時「いや保留だから」と、目の前のことをやるしかないと思います。

これだけ語って保留かよって感じですが、結局人は生まれた瞬間から死に向かって進んでいるわけで・・「死について知りたい、知ってスッキリしたい!」と思えばこそ、とりあえず一生懸命生きるしかないのではと思うのです。
できれば、ひたすら怯える、考えないようにする、ではなく自力で心を落ち着けられるようになることを目指したいものです。

死ぬのが怖いときどうする?タナトフォビアの落ち着け方

自分のマインドは自分で操る

次に、落ち着くためにちょっと考えてみましょう。
例えば、生まれる前の記憶がありますか?たまにそういう人がいるって聞きますね。胎内での記憶を持った子供とか、前世の記憶が混同して知るはずないことを知っていたり・・なんていう話一度は聞いたことあるのではないでしょうか?

それが何にせよ、実際にそういう記憶がある人がいるとして。
あまり一般的ではない現象ですから、きっと『人は生まれたら、生まれてからの記憶しか持てない』という自然の戒律のようなものを、何かの事情ですり抜けることが出来てしまったということなんでしょうか。チケット見せてないのに入れちゃった・・みたいなね。ウロウロしていると、悪気がなくてもたまにそういうことありますよね。

何か死後について書かれているものがあれば、避けずにひとまず吸収してみることをお勧めします。

お金を払わせようとしたり、明らかに洗脳しようとしている場合は論外ですが、「そういうの怖くなっちゃうから・・」といわず、思い切ってまずインプットしてみると『自分の死生観』を作る大きな助けになります。
ポイントは、すでに出来上がった説を頑張って信じるのではなく、死について自分の見解を持つことです。

ゆるーく自分の生命を遡ってみるテスト

わたしたちが日頃食べたり飲んだりして、一生懸命維持している自分の命。
赤ちゃんの頃からこんな風に自力で生きていたわけではありません。命を失うのは恐ろしいことです。では、その命とはそもそもなんなのかゆるっと遡ってみます。

まず、人間のタネとたまご。精子は、下垂体ホルモンや男性ホルモンの影響で日々作られます。卵子は、いずれ卵子になる「原子卵胞」といわれるものが、母親が胎児のうちにすでにできています。人間の女性は一生分の卵を蓄えた状態で生まれてくるということです。不思議ですよね。

受精卵が誕生し、胎内でいい具合まで成長していきます。いよいよこれが人になるわけですが、では、精子と卵子はそもそもいったいどこから・・?
生き物は栄養分を摂取しなければ、身体の中でなにも生成できませんし、繁殖パワーも湧きません。卵子は初めからあるということで、一見不思議ですが、母親が物を食べて血液を作って循環させないと維持できません。

つまり私たちのもともとは「親の一部」ということになり、

生き物と呼べる状態の前は「親の食べたゴハン」ということになります。

わたしたち、もともとはゴハン・・・?!

ゴハンがものを考えたり、死ぬのを怖がったり・・?

つまり「自意識」が芽生えているのが謎すぎる

「自意識」っていつごろ持ったのか、覚えていますか?

ちなみにわたしは、2歳くらいから考えてたことの記憶があります。

ミシンを使う母親の背中に乗って遊んだこと。
車で近くの海浜から砂を運んできてもらい、その砂で庭に砂場を作ってもらっていて、そこで遊ぶのが大好きでした。

まだ幼稚園に通い始める前、朝初めて自発的に起きて
(おはよーって挨拶すればえらいこって褒められるかもしれない!)

と期待して母と祖母がテレビを見ている部屋に走って行ったのも覚えています。

自我、物心というやつですね。

自意識を持つことそのものが「生きている状態」といってもいいくらい、人間は自意識を頼りに生きています。

そして、この自意識を消滅させること、思考からの解放を求めて自殺する人たちが後を絶たないのも現実です。

Q【かぼちゃ】=【自意識】はいつ死んだか

以前「かぼちゃはいつ死んだか」というテーマの、あるご住職の書いた文章を読んだことがあります。

かぼちゃの天ぷらを前にして、このかぼちゃはいつ死んだのか、を数名のおばあちゃんが議論する様子が語られています。

様々な意見が出ます。

カットされてかぼちゃの形じゃなくなった時?

高温で揚げられた時?

飲み込まれた時?消化された時?

A【かぼちゃ】=【自意識】はいつ死んだか

最後、ご住職は結論を出しますが、これは物凄く腑に落ちて、納得しました。

「育った畑からの別れ、隣り合ったかぼちゃとの別れ」を理由に、人にとっての死と同じ状況は、かぼちゃを蔓から切り離したときだという風に文を締めていました。

カットかぼちゃ

天ぷら

おばあちゃんの栄養分

うんち

かぼちゃはかぼちゃでなくなってからも、形が変わっても、ずっと「消滅」はしません。

親が食べたゴハン(栄養分)で人になったOSUが変化して、どこかの段階で魂が入りました。

意識を持つに値する状態になったから意識を持つことができたのだとしたら。

死の直前、意識を持つに値する状態でなくなったから意識を手放すことになった・・・。

かぼちゃは蔓を切られた時点で死んでしまったけど、その後天ぷらになりました。

わたしたちも蔓を切られたつまり”死後”、台所で天ぷらになるのかもしれないですよね。

これが憶測でしかないのは、畑で天ぷらは揚げないからです。

畑の私たちは台所の存在なんて見たこともないし、これからも知る由がないのです・・・

怖いからこそもっと死を見つめる

これってオカルト的な話ではなく、次元的な話であると思っています。

次元についての話では、2014年の映画「インターステラー」が衝撃的でした。

今現在目に見えてる、感じてるということがどれだけ曖昧なことであるのか、フィクションですが腑に落ちるように、物理学的に描かれていました。

死を恐怖するというのは、つまり自分がいつかかぼちゃ(自分)でなくなることに恐れを感じるということでもあります。

人間は自分の心や意識にべったりと頼って生きてるし、自我の認識も他の動物より強いと言われています。

しかしながら、だからこそ人によって生み出せる言葉、芸術、環境がそれぞれあります。

その多様性で人間はここまで進歩してきたんですもんね。

その意識がいつかなくなる日が来るのかもしれない、と思えばとてつもない恐怖を感じます。

チャップリンが映画の中で「僕は死ぬのが楽しみだ」と歌っていたのを思い出しました。

この価値観も衝撃でした。イワシの歌といったかな・・

身近な死を吸収して、この歌のようにいつか思えたら、タナトフォビアを克服したことになるのではないでしょうか。

死ぬのが怖い時におすすめの映画10選