豊かさで死の恐怖は解決しない!平安貴族と江戸の町人の死生観を比較してみる

      
豊かさで死の恐怖は解決しない!平安貴族と江戸の町人の死生観を比較してみる

タナトフォビア(死恐怖症)であることを公表している有名人は、日本国内でも海外でも、ほとんどいません。

近頃は本当に物が足りてきて不便がなくなり、十数年前に難病といわれていた病気も治るようになってきました。すると、ほとんどのことがどうにかなる今、避けられない「死」に恐怖感を持つ人がどんどん増えてくるのではないかなとわたしは思っています。

物で満たされた生活は確かに充実しているようですが、満ち足りている反面、いつか訪れる死を恐れてしまうことがあります。
今回は、日本史の中に垣間見る、日本人の生活環境と死生観について書いていこうと思います。

日本史の教科書に載っているタナトフォビアマン

日本史上のタナトフォビアの人物。精神医療が確立するずっと前のことで、もちろん診断されたわけではありませんが、あまりにもあからさまにタナトフォビアだった人物がいます。
栄華を極めた平安貴族、この世に思い通りにならないことはないと歌を詠みながら、晩年は死を恐れ、神にすがりながら死んでいきました。藤原道長は立派なタナトフォビアです。

藤原道長のやりたい放題の現世

当時、平安貴族は天皇に仕えて政治の代行をするのが仕事でした。
そして、藤原道長の父は摂政(天皇に代わって政治を決定する職)という大変権力のあるポジションでした。道長は、賢い兄貴が病死したのをきっかけに、まずは左大臣になり、政権を握り、自分の娘を4人も天皇に嫁がせます。
嫁いだ娘の子どもが天皇になれば、天皇の祖父として摂政になれるというわけです。思惑通り、道長は摂政になり、幼い孫の代わりに天皇に代わりあらゆる決定権をゲットし、それはもう好き勝手に暮らします。
いかに彼が絶好調だったかは、道長が祝賀の時に詠んだ歌からバッチリ読み取れます。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

訳:「この世は 俺のためにあるようなものだな 満月みたいな感じ 満ち満ち」

栄華を極めるとは、まさにこのことですね。
それにしてもこの歌、教科書でも何気なくスルーしがちですが、こっそり書いて引き出しにしまっていたわけじゃないですからね。娘の結婚式で詠んで、みんなの前で発表したわけですから、ものすごく調子にのってますよね。あんまり想像しすぎると共感性羞恥心でこっちまで恥ずかしくなってきます。

望月が欠けてきた晩年

道長は、この歌を詠んだ翌年には、糖尿病、白内障、心臓病などを次々発症し、最終的に自力では排泄すらできなくなります。
目も見えなくなり、日々胸痛で呻いていたようです。背中にすごいビックサイズのおできが出来て、それも彼を苦しめたとのことです。あっという間の転落です。
糖尿病・・というか、生活習慣病ですね。癌も患っていたという説もあります。当時の平安貴族の生活は、不健康そのもので寿命は短かったとされています。重い着物を着て運動せず、デザート付きの食事を1日に何度も食べていました。白い肌が雅な証なので、屋外にもあまり出ないのもビタミン欠乏につながったと思われます。

仏教の死生観にすがった道長

たった数年で、身体をボロボロに患ってしまった道長は、いよいよ死を意識します。彼は髪を剃り、仏門に入りました。道長の死に際には、金で出来た阿弥陀如来像と自分を五色の糸で結んで繋げ、その周りを何十人もの位の高い僧侶に取り囲ませ読経させました。やはり、ものすごくお金をかけていますね。天国へ賄賂を送る、とはまさにこのことです。しかし、死の恐怖に取り憑かれたら自分の持ち物を全て差し出してでも助けを乞いたくなったのでしょう。この世で築き上げてきた富や名誉は死の前では無価値、一つも持っていけないのだと気づくことは、想像を絶する恐怖でしょう。
なにがなんでも死後に極楽浄土に行けるように、自らも読経しながら絶命したと伝えられています。これは今で言うセラピーですね。栄華を極めた貴族も、死に際には心の安寧を求める。仏門に入ったのが何よりの証拠です。

実は栄華を極めた時点でタナトフォビアだったのでは?

先ほど紹介した「絶好調の歌」は、一般的にはうぬぼれソングとして紹介されます。しかし、この歌の中に既にタナトフォビアを感じさせる部分があります。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

訳:「この世は 俺のためにあるようなものだな 満月みたいな感じ 満ち満ち」

自分の娘・三女を天皇に嫁がせたときの、3日3晩続いたパーティーで詠んだ歌です。
月というのは、平安時代の文化に頻繁に登場するモチーフです。豪華絢爛の祝賀で敢えて空を見上げ、満ち欠けする月について触れる。当時の感覚では普通なのかもしれませんが、やってることはなかなかセンチメンタルです。
道長は、たまたま娘を4人も天皇の嫁にねじ込むことができた、単なるラッキーおじさんではありません。彼は物凄い策士であり、娘のもとに天皇を足繁く通わせるために、紫式部などの優秀な女性歌人を家庭教師に雇うなど、目的のために工夫を凝らせる賢い人物です。その賢い彼が、絶好調の歌を詠んだ時、月が必ず欠けると言うことは十分理解していたことでしょう。この漠然とした不安こそタナトフォビアです。
彼は栄華を極めた何不自由ない生活の中で、必ず訪れる死について薄っすらと不安を抱き、手元にある豪華絢爛な私物も、国で一番の権力も、何も死後に連れていけないことを頭では理解していた。そこで、一見うぬぼれたキャラクターに沿った歌を詠むことで、死の孤独を小出しに放出し、漠然とした不安から身を守っていたのではないでしょうか。自分を励ます歌にも感じ取れるのです。

平安貴族の間では、仏教が流行しました。阿弥陀仏による往生を願う、浄土信仰。
「死んでからも今みたいないいことで暮らしたい!極楽浄土?じゃあそれで!」という感じでしょうか。
そこで貴族たちがスポンサーになって建てられたのが「平等院鳳凰堂」です。この「平等」は仏様は人間を平等に救ってくださる、という由来があります。
豊かさゆえの、失う恐怖。からのタナトフォビア。これは現代人にも通じるものがあるのでは。

喰らえ、江戸時代

時代は違いますが、同じ日本史上に平安貴族とは対照的な死生観を持っていた人達がいます。江戸時代の風景は、浮世絵や時代劇で目にする、華やかでエネルギッシュなイメージです。しかしあれは一部の富裕層や、結構マシな生活をしている人達です。

大半の江戸の町人はかなり貧しい生活をしていました。

食事の内容が悪く、脚気などの欠乏症にかかり、治療方法も確立されていませんでした。当時、江戸の人口密度は世界一で死亡率もとても高いものでした。社会が安定していたから人口が一定、と言うわけではなく地方で増えた人口を出稼ぎ先の都市が間引いていたからです。

大衆文化では身分は関係なかった

貧しさ故に都市で出稼ぎをし、身を寄せ合って生活するという、いわゆるスラムの状況を生きていた町人達。ちょっと面白いのが、大衆文化においては生まれ持った身分や貧しさは関係なかったということです。学術、芸術分野には、社会的な立場は関係なく誰でも挑戦することができました。下の身分の者が深い知識を持っていれば、教えを乞うこともあったそうです。まるで釣りバカ日誌のスーさんとハマちゃんを彷彿させます。立場の壁のない自由な環境のおかげで、江戸の文化は大変な勢いで発展していくのです。
たとえば、錦絵(版画印刷、ブロマイド的な)や大衆小説などが大流行しました。規制されてもすぐまた流行るといった状態、カオス(いい意味で)ですね。大衆浴場が社交場になり、娯楽や習い事の情報をそこで仕入れます。

死ぬほどの貧しさと文化の発展が隣り合わせ

上手く立ち回らなければ死んでしまうほどの貧しさと、文化の発展が隣り合わせの状態。当時の江戸の町は、インドの大都市によく似た雰囲気だったといわれています。そんな生活が元になって生まれたであろう、江戸町人の価値観があります。

浮世の思想
「浮世」という言葉は、浮世絵などからも馴染みがあります。しかし元の字は「憂世」つまり、憂鬱で辛い世の中という意味合いの言葉で、そこに「浮」の字をあてたのが浮世です。

×「儚くて悲しい」

○「どうせ儚いんだから浮かれて暮らそうぜ」

 

 

 現世を肯定した、享楽的世間観。という風に説明されたりします。浮世享楽という言葉がありますよね。
そこはかとないスラム味、仄かなヤンキー感がありますね。

懐が豊かなら幸せか?という議論に入ってくる…

 

同じ日本史上での死生観をふたつ取り上げました。こうしてみると、一体 何をもって満ち足りた人生とするのか…考えてしまいませんか?もちろんそれぞれの時代の雰囲気の話なので、実際はタナトフォビアの江戸町人も、ヤンキーの貴族もいたと思います。
歴史の話、昔の話ではありますが、ここでは国や性別年齢だけでなく、時代もすべて掘り返してタナトフォビアに効く死生観を取り上げていきます。自分と平安貴族…別に関係ねえな、と思いきや。色々と引っ張り出して考えることで、自分が死ぬということに向き合った時に、自分を説得するための自分だけの価値観と作るための材料ができます。
自分で作り上げた価値観は、軸になり不動です。